日々の記述

ここでは日記を書いています。/庵乃さか:X@saracara1899/詳細プロフィール▶https://promee.link/iorino.saka

24.09.20【読書感想文】『八月のセノーテ』 「それだけ」じゃダメなんだ

 

 去る9月18日、大原鉄平さん『八月のセノーテ』(229枚)(小説トリッパー2024秋季号掲載)を読んだ。そうか、小説って、文学って、「それだけ」じゃダメなんだなあと、やっと少しわかった気がする。 大原さんの『八月のセノーテ』(以下:今作)を読んで、一読したときは、
●大原さんが得意とされる風景描写の細かさ、美しさ、瑞々しさが素晴らしい
●人物の感情の機微、観察眼の鋭さなどから生まれる、登場人物たちの生身のある人間っぽさ、リアリティがすごい
●子どもが子どもゆえに感じる、自分が置かれた現実世界への閉塞感や、自分自身への無力感に、かつて自分も子どもだったときに感じたことのある感情だなあと共感する
 というようなところを感じて「おもしろかった」と思った。
 しかし一読しただけでは、この物語は何がテーマだったのか、わたしは自信を持って断じることができなかった。「おもしろかった」けれど、上記に挙げたような点は作品の主テーマではない。主テーマでないところを「おもしろかった」と述べるのも、悪くはないけれど、なんだかちょっと話を逸らしている感があり、居心地が悪い。
 それに、わたしは一読しただけでは主テーマを掴みきれなかったけれど、他の人は一読でも掴んだかもしれないし、自分の読みが甘いだけでは、という疑いがあった。そして大原さんみたいな人が、よくわからないものを「よくわからないのが文学だ」などと言うような態度で甘んじて書きっぱなしにするはずがないとわたしは思ったので、大原さんから与えられた小説テキストをもっとじっくり読み込んで「わかる」べきだと思った。だから諦めずに一読の後、一読したときよりも時間をかけてさらに二周した。
 時間をかけて読み込んだ結果、なるほど、これは主人公・仁寡(ひとか)の成長物語として読むことができそうだ、とひとつの結論は出せた。
 しかし! 読み込むと「それだけ」ではないことがわかった。「それだけ」ではないのが大原さんの小説の素晴らしいところだと思った。
 ストーリーの主テーマというか、ストーリーを書く上での一本の芯として、仁寡の成長を貫いて描いているのはもちろんあるのだけれど、その上にさらにプラスして、たくさんの仕掛けや意味がちりばめられている。それらの仕掛けの妙を見つけて、読み込んで、解釈することを総じてやっと「おもしろい」と言えると思った。
 だから読み込んでみた今やっと、この物語は本当に「おもしろい」とわたしは胸を張って言える。
 以下にわたしが感じた「おもしろかった」点を挙げていく。以下は今作の内容に思いっきり触れていくことになるので、今作をまず他人が思った余計な感想を交えずに読みたい、という未読の方は読まないでくださいね。

 

ーーーーーー以下未読の方は特に閲覧注意ーーーーーー
◆目次◆
【1】着目すべきところの多さがおもしろい
【2】エピソードの豊富さがおもしろい
【3】仁寡の成長という主ストーリーから読み解くとおもしろい
【4】その他雑多に
【5】終わりに

 

◆内容◆
【1】ー0
 なんと言っても、着目すべきところの多さがおもしろい。
 今作はいろんな観点から読むことができるのが非常におもしろい。文学レポートが何本でも書けそうなくらいの見所があると感じた。1~3に観点を挙げていく。さすがに観点だけの箇条書きのみとさせていただく。
【1】ー1
<対比から読む>
1)海とプールの対比
2)仁寡とりょうの対比
・夕焼け色の自転車と青色(海かプールかセノーテの青)
・しるしの有無
・姉と弟であった関係から兄と妹になる関係の変遷
3)仁寡と和久の対比
・子と親という関係
・弱い者と強い者という関係
・父に土下座しない者と、かつて父に土下座した者という関係
・父と縁を切れない者とすでに縁を切った者という関係
4)「絵の中の父」と「現実の父」との対比
5)和久と野口先輩の対比
・土下座したもの同士という関係性
・土下座させる、するの関係性
6)野口先輩と月見先輩との対比
・しるしを奪う側奪われる側
・刺される側刺す側
・背泳ぎが得意な三年生とバタフライが得意な二年生
・自由奔放な人柄とルールの中で厳しく生きる人柄の対比
・「逃げない」を選ぶ人と「逃げられない」場所で戦う人という対比
【1】ー2
<謎から読む>
1)名付けの謎
・仁寡はなぜ「仁が少ない」という漢字で名付けられているのか。父和久は凶暴性を備えた人物であるのになぜ「久しく和む」=「ずっと穏やか」という漢字なのか。
・月見先輩の「月を見る」という名前に込められた意味は何か。金髪がくらげ(海月)に例えられる野口先輩との関係の暗示か。
2)セノーテの謎
・セノーテはどこにあるのか。
 ※水没した後の世界の逃げ場として「すぐ近くに」ある(P49)
 ※「自分の中にある」(P91)
 ※プールの中にある(P98)
3)野口先輩の謎
・野口先輩は駅で誰を待っているのか。
・野口先輩は誰のために家をきれいに保っているのか。
・野口先輩の生死はなぜ明かされないのか。
【1】ー3
<象徴的な言葉に着目して読む>
1)セノーテに入るためのしるし(=力、知恵、勇気)の言い換え
・りょうのショートボブ(P34)
・父和久にある「力」(P36)
 ※ただし父には三つとも備わっているように書かれている。(P33)
・野口先輩の伝説のブルゾン(P46)
・祖母を介護したり家事をしたりするりょうにあり、仁寡にはない「資格」(P51)
・月見先輩の「勲章」としての自転車(P57)
・よし子から仁寡に与えられる「POWER」の缶バッジ(P78)
2)「お前、逃げへんのか。逃げられへんのか。どっちやねん」「俺は逃げへんぞ」(P76)
3)「野口先輩は、泳げたかてしゃァないぞ、と言った。
  月見先輩は、とにかく練習やで、と言った。
  どちらを選べばいいのかまだわからないのに、二人の先輩はいなくなってしまった。」(P86ー87)
4)「すごいわ、どこまで行っても海がない」(P90)
5)「ここはとても遠い場所だよ。知ってると思うけど」(P92)
6)「お前、お父さんのことが好きか」(P93)
7)「お父さん、僕はそのしるしを一つ持ってるで。」(P96)
【1】ー4
 以上【1】-1~3において、文学レポートが何本も書けそうなくらい深堀ができそうな点がとてもおもしろい。それぞれで考察ができそう。特に作中で繰り返し使われている言葉には意味がないことを書いているわけがないと思うので、繰り返される言葉や言い換えで何度も登場するものについては深く考えたいところ。今回はキリがないので思いつく限りの観点のみの列挙としたが、これだけ観点があると思うので、考察自体は割愛するが、今後も考えたい。

【2】エピソードの豊富さがおもしろい
 次に、エピソードの多さについて。一行空きの部分で章が分かれると考えた場合、数え間違いがなければ全部で三十章あった今作。その一章一章に細かいエピソードがものすごくたくさんある。順番にざっくり挙げるだけで骨が折れそうだが、並べてみたいので並べてみる。
 沈む島の話、くらげみたいに浮かぶ野口先輩の金色の髪、タワーマンション、伝説の三つのしるし、突堤認知症、海になんか来たくない、父の中華屋の歴史、父の年賀状との絶望的な差、両親から強いられる感謝の気持ち、海の香り、バルコニーにりょうをあげてやる空想、暴力的な西日が好きな仁寡、イーテン(イートインコーナーでテンインから注意されるまで、の略)、駅の白いベンチ、冷静な人たち、ミックスジュース、システムキッチンだけ新しいりょうの家、敬子視点の和久、敬子からの仁寡への期待、奪われる傘と海に捨てられる傘、伝説のブルゾン、誰かを待っている野口先輩、仁寡の海の絵を見て手をあげない父、ハンバーガーを食べられない仁寡、「子供っぽい」、千の家で過ごした一ヶ月、漁師の西田、盗まれた自転車、「先生には言うなよ」、旧市街地、徘徊する祖母、画家を家に呼ぶ、仁寡の生まれた日の回想……。
 今作半分の(!)十五章までの箇条書きで、なんとこれだけのエピソードがある。いや実際はあげていないものもあるのでもっとある。途中から、並べる意味がわからなくなったので後半は割愛するが、エピソードが豊富で、今作の世界観が、読めば読むほど現実として立ち現れてくるのがすごいなあと思った。
 エピソードを並べていて思い出したので書くと、自転車を野口先輩に盗られたことに対して「先生には言うなよ」(P56)と言った月見先輩の台詞は、「警察には通報するな」(P67)の和久がアルバイトで雇っていた大学生を(おそらく暴力と経済で)懲らしめる前触れの言葉とリンクしている気がして、野口先輩を刺すという暴力的な解決の暗示になっていたように思い、気付いたときにはぞくぞくした。(もちろんその意図はないかもしれないが。)月見先輩は普段温厚で、誰も見ていない、車が通っていない横断歩道でも信号を守るような少年なのに、店で働く和久は人徳に厚いけれど家では凶暴だというのと同じような二面性がある、のかもしれないと思った。

【3】仁寡の成長という主ストーリーから読み解くとおもしろい
 書く方も読む方も息切れしてきた頃合いかと思うのでざっくり書くと、第二章の時点では、セノーテに入るための三つのしるしを一つも持っていない仁寡が、
○当初は独学で絵を描いていたが、画家が絵を描く現場を見たことにより技法を持って作品として意識して初めて絵を描いたこと、
○頭を冷やしてこいと言われて初めて夜のプールに忍び込むこと、
○野口先輩の家へ着いていき「改めて(※本文中に記載あり)」野口先輩を見て、自分たちと変わらない柔らかさのようなものに「初めて(※)」気付くこと、
○旧市街地を抜けて「初めて(※)」本土から人口島を眺めること、
○父和久に詰め寄られながら「大事な話があるねん。」と言ってセノーテのことを初めて話すこと、
など、初めてすることを通して成長した結果、「お父さん、僕はそのしるしを一つ持ってるで。」と言うまでに成長したのは感慨深くて、おもしろい。
 しかし、最終的に、プールの中で見つけた「セノーテ」を仁寡は「あったで!」と言うのに、ワープはできなかった、と言う。
 そして今作は、りょうの感慨で終わる。「その光から徐々に遠ざかりながらりょうは、自分はやがて仁寡と共に、あの光の向こう側へ行くのだろうと思った。」
 このエンドについてわたしは、野口先輩と同様で仁寡は「逃げられへんのではなく逃げへん」という選択をしたのだと思った。「逃げられない」と「逃げない」には雲泥の差があるが、最初は月見先輩に憧れていた仁寡は、物語を通していつの間にか野口先輩に影響されたのではないかとわたしは考える。野口先輩はプールの中でその金髪をくらげ(くらげは漢字で「海月」と書く。海の月。これはわざとだろうか。)のように描写されているが、プールから見るセノーテの風景は、月の光が作る明暗でできている風景で、「野口先輩はこれを見ていたのだと確信した。」(P98)とあるので、仁寡は最終的に、しるしを奪われた月見先輩ではなく、しるしを持つ野口先輩、意思をもってそこから「逃げへん」選択をする野口先輩寄りに成長したのだろうと思った。

【4】その他雑多に
 【1】についてもう少し。
 人物や事象を対比させて小説を読むのはとてもおもしろい考え方だと思っているので、いろんな対比を追ってみたが、もしわたしがこの中から一本選んでレポートを書くとしたら、やはり月見先輩と野口先輩の対比を考えると思う。対称的な二人の先輩。【3】のほうで触れたが、わたしの読解では仁寡の成長過程で、仁寡の興味は月見先輩から野口先輩へ変遷していっているように考えたが、そのあたりをもっと考えていくとおもしろい気がする。
 それから今回わたしは追わなかったが、「海」が象徴するものを追っていくのもおもしろい気がする。気になる表現がいくつもある。何回か登場する、プールは泳げても海は泳げない、という表現と、「海から離れて辛かろうになあ」(P55)、「あっちもこっちも海ばっかで、行き止まりで。」(P85)、「すごいわ、どこまで行っても海がない」(P90)という表現など。発言している人がそれぞれ違うので、それぞれの人物が捉える「海」のイメージの違いもあるから、一緒の「海」として論じるのは暴論になりそうだけれど、海が何を象徴しているかを読み解くのもおもしろそうだと思う。セノーテが泉なのに、全てを沈めるのは海だというのも何かの暗示なのかもしれない。もちろん、そうではないのかもしれないけれど。

【5】終わりに
 などなど、「感想」を考えていたはずが、いつの間にか大学時代に無理矢理いろいろなものを結びつけてレポートを書いていた経験から「考察」風になってしまったけれど、読んで楽しかったし、考察して楽しかった。
 無理矢理こじつけずに一読目で素直に読んで何かを得られるのは小説の楽しみ方の一つではあると思うけれど、全体と細部を矯めつ眇めつしてみるのも小説の……というか、文学の楽しみではあると思う。文学って何? と訊かれたら答えに窮するし、わたしが偉そうに答える資格はありやなしや……ではあるのだが、「小説」と「文学」もまた差があるのかもしれないと今回思った。「読み物」と「小説」に差があるとわたしの好きな作家さんが公募の講評で書かれていて、うんうん、と頷いてよく心に刻んだのはここ三ヶ月以内のことなのだが、「小説」と「文学」もさらにまた違いがあるのかもしれない。今作を「わたしが」定義づけるのであれば、わたしは今作を「文学」だと思った。そして「おもしろい」と思ったし、好きな作品だと思った。


ーーーーーー以下は作品についてではなく自分の話ーーーーーー


 ここからは今作についてではなく個人的な話になるが、大原さんの林芙美子文学賞受賞作『森は盗む』について感想を書いてTwitter(現X)にアップしたときにわたしは、自分の読後感想を後から読み直して、正直後悔した。他の人がもっといい感想を寄せているのを後からみて、言葉を尽くせなかった自分と、読みの浅さに情けなくなったのだった。
 しかしそのときは「共感」したところについて書いたのだが、今回は「共感」の感想を脱却して考えることができた気がする。今まで、大学でそれなりに文学をやって卒業したはずなのに(※わたしは文学部出身ではありません。大学ではオリジナル一人文学部でした。詳細は伏せますが、文学部出身ではないため「それなりに」などと書きます。)、「共感」でしか小説を楽しめなかったのだけれど、今回は、前回の反省も生かし、また他にも思うところがあり、大原さんの小説を題材にしてここまで考えることができた。それはわたしにとって大きな進歩になったと思う。「共感」以外で小説を読んでも、こんなにも楽しいのだ。
 なんじゃその締めは、と思われることと思うが、小説を読む楽しみは様々。小説を読んでどこで読者が自分の成長を味わうかも様々。作者の思わぬところで引っかかって感銘を受け、作者の意図しないところを突っつくのが読者だし、突っつかれるのは作者の醍醐味だと思っていただけたら嬉しい。
 そして最後に断っておきたいのが、今回大原さんの小説を題材にここまで読み込んだ(正味丸二日はかかった)のには下心があり、それはもちろん大原さんからの見返りを求めているわけではなく(!)、自分の書き手としての成長のためであると断っておきたい。
 これは誰かのために書いた文章ではなく、わたし自身のための文章である。大原さんの小説を題材に、なるほど、小説ってこうやって書けばおもしろいのか、と学ばせていただくためにここまで考えてみた。そういう下心がなければここまでは普通はやらない。大原さんに見返りなど求めるまでもなく、すでにわたしはこの二日を通して大原さんの小説から大変学ばせてもらって、小説の書き方をまた一つ教わったところである。
 そういうわけで、大原さんへ。
 素晴らしい作品をありがとうございました。大変おもしろくて、考察がいがあり、かつ作品としても素晴らしいものでした。細部は美しく、知識は豊富で、選び抜かれた言葉と、登場人物それぞれへの愛と愛ゆえのリアリティには大変恐れ入りました。あと流れもスムーズで読みやすく、ストーリーテラーとしての力量も感じました。今後もさらなるご活躍をお祈り申し上げます。今後もよろしくお願いいたします。

 なお念のため……ご本人に長文の感想を挙げることについて事前にご許可頂きましたので、ご心配なく。(作家さんに直接連絡取るのはどうなの? とも思ったので、許諾関係にお詳しい方がこれをお読みになったら、ぜひマナーについてご指導ください……。)